Futebol japones!
中学校卒業の年、カズはクラスで進路志望を書かされたとき、第一志望の高校の名前を書く欄に「ブラジル」と記入した。
カズはサンパウロにある「ジュペントス」というクラブの寮で、5人の少年達と小さな汚い部屋の2段ベットで寝る生活が始まった。免疫の無いカズの体にはノミとダニがいっぱいたかって、はじめの頃は痒さでまともに睡眠すら取れなかった。
苦労はフィールドでも同じだった。チームメイトは誰も彼にパスをしようとはしなかった。偶然ボールを自分のものにしてドリブル突破を試みても、すぐに奪い取られた。
スタンドの声がカズの耳に届いた。「Futebol japones! 」
ブラジルには大きな日本人社会が築かれていた。彼らは農場を開拓し、勤勉に働き、多くの人がビジネスでも成功し、リトル・トーキョーという名で知られるサンパウロの高級住宅地で暮らすようになっていた。しかし日系人たちはサッカーに対しては全く影響をおよぼさなかった。“Futebol japones”という言葉は「日本人にしか出来ないくらい下手糞なプレー」という意味で用いられていた。チームメイトたちも「Futebol japones! 」と彼をあざけるようになった。
それが限界だった。カズはごく稀にしか試合に起用されなくなり、練習試合にすら出られなくなった。たまに試合に起用されても、最初の試合と同じような扱いを受け、同じような野次を飛ばされた。
「ヘイ、ジャポネス!リトル・トーキョーに帰って天ぷらでも揚げてろ!」
「そんな細い目でボールが見えるのか?」
それでもカズは、陽が沈み暗くなったあとまで一人で居残り練習を続け、何時間もシュートやドリブルの練習を繰り返し、1日に何百回もの筋トレを、毎日続けた。
チームメイトとのコミュニケーションを改善するためにリトル・トーキョーにある学校でポルトガル語の授業を受け、夜も勉強した。小さな傾いた寝台に横になり、辞書から単語を見つけ出して小さな声で発音の練習を繰り返し、本を手にしたまま眠りにつくという日々がつづいた。
それでも目に見える進歩はなかった。彼は孤独だった。彼は情熱を失い始めた。ブラジルでの生活は2年3ヶ月経過した。彼はジュベントスから「キンゼ・デ・ジャウー」というサンパウロから300kmも離れた小さな町のチームに移った。が、そこでも大きな活躍はなかった。
希望を失った彼は、ブラジルへ渡って以来はじめて母親に電話をかけた。そして「もうこれ以上は耐えられない、家へ帰る」 と伝えた。母親は、サッカーショップを経営し少年サッカーチームの運営にも携わっていた叔父に、このことを伝えた。叔父はカズに電話した。「何を寝ぼけたことを言っているんだ!帰ってくるな!わかったな!」
カズはバスに乗り、サンパウロで暮らしていた父親に会いに行った。同情して欲しかったし、自分の気持ちを理解して欲しかった。 しかし父親は叫んだ、「日本に帰るだと?わかった。お前がそんなに弱虫だとは知らなかった。だったら、日本へ帰れ!」そしてカズの右の頬を殴りつけた。カズは初めて父親に殴られた。
「わかったよ。じゃあ、帰るよ」とカズは答えた。
「もう、それ以外にない」と思うしかなかった。
カズはブラジルを永遠に離れてしまう前に観光をしようと思った。そこでカズは、聖地マラカナン・スタジアムに足を運んだ。 スタジアムを見た後、リオの裏通りをぶらぶらと歩き、小さな公園のベンチに腰をおろした。目の前では20人くらいの子供達が 草サッカーに興じていた。12歳前後の少年達は汚くほころびたシャツを着ていた。靴を履いていない少年も半数近くいた。
そんななかに一人の少年がいた。 彼は片足しかなく、それでもピョンピョン跳ねながらボールの後を追いかけ、プレーに参加しようとしていた。
そのときカズは胸の奥から熱いものが湧き出してくるのを感じた。
「俺はなんと恵まれているんだろう…!」
そう思ったあと、自分自身に腹が立ってきた。「それなのに、俺は…」
そのとき彼は「もう一度ブラジルに挑戦しよう」と心に決めたのだった。
投稿者:FC-Cyberstationat 10:25| ジロー日記 | コメント(0) | トラックバック(0)